PROFILE(耳歴)

 出生から小学校(耳歴の始まりは映画音楽)

 小学校6年から中学校前期(ポップスからロックへ)

 中学校後期から高校(ロックからクロスオーバーへ)

 大学生時代(クロスオーバーからスィングジャズ、そして演歌へ)

 社会人時代(演歌からニューミュージック、ロックへの回帰)

  社会人ひよこ時代

  社会人雛鶏時代

  社会人親鶏時代


















出生から小学校まで(耳歴の始まりは映画音楽)

はなわ君のおかげ?で有名になった佐賀県の伊万里市で昭和33年(1958)に生まれました。その後、父親の仕事の関係で唐津、博多、大川、大牟田、鹿屋など九州を転々とします。音楽との接触は父親が映画館の支配人(東宝系)をしていた関係で映画音楽が最初だったような記憶があります。しかも、映画館に映画の配給元より支給される非売品のサントラのレコード。邦画と洋画の両方がありました。その当時東宝は、東宝東和という会社が洋画の配給をしており、フランス映画などのヨーロッパの映画が中心だったと思います。したがって、子どもが観る映画としては、かなり厳しかった記憶があります。ハッピーエンドで終わらないところがフランス映画の特徴でもありますが、その反面音楽のほうは心に染み渡る曲が多く、今でも聞いたりするときがあります。(落ち込んでいるときは聴かないほうがいいかも)
まだまだ、日本における海外の音楽の扱い方は、ロックがポップスや映画音楽と同じヒットチャートに並んでいるような発展途上の時代でしたので明確に好きなバンドがいたわけでなく、ヒットチャートを賑わす曲だけが情報という段階でした。
当時、特に記憶に残っているのは洋画では『ロミオとジュリエット』(デカプリオではありません)や『荒野の七人』などのウェスタン系(娯楽系なので深刻にならずにすむ)、シャルル・アズナブールやジリオラ・チンクィッティなどのシャンソン系フレンチポップスでしょうか。
洋楽系は、いとこの部屋で聴くことが多く、ビートルズ、モンキーズ、ビーチボーイズ、フルーツガムカンパニーなどでした。




















小学校6年から中学校前期(ポップスからロックへ)

私にロックというジャンルを認識させるきっかけになったのは転校先の鹿屋小学校へ通う途中にある本屋でした。それまでは、本屋にはあまり立ち寄らなかったし買うお金もありませんでした。マンガの本は、床屋で読むし単行本は貸し本屋で借りるという時代です。
たまたま、立ち寄ったときに中学校のお兄さんやお姉さんが、平凡や明星とともに買っていたのが『音楽専科』『ミュージックライフ』だったのです。私も少しだけ背伸びをしようと思いましたが、『音楽専科』は小学生には難しく、写真が多く掲載されていてミーハー的(東条かおる子さんごめんなさい)な『ミュージックライフ』を毎月買うようになりました。たしか、値段が250円位だったような気がします。毎月のお小遣いが1000円だったのでかなり厳しかったのを覚えています。ちなみに映画の代金は子ども300円、EPも300円の時代です。
この時代は、ちょうど1970年前後という時期にあたりロックやフォークが反体制と平和や自由の象徴として大きくクローズアップされていた時代でもありました。貯まったお金で『ミュージックライフ』のバックナンバーを買ったりしてせっせと情報集めをしておりました。
『ミュージックライフ』の中で、毎月楽しみにしていたのは、小学生には買えもしないアルバムとなんとか一枚だったら買えるかなというEP紹介のコーナーでした。両方ともエアーチェックの情報源として十二分に活用させていただきました。当時、NHKで毎週日曜日の夕方6時から洋楽関係の番組があり、シングル関係は、ほとんどこの番組で録音させていただきました。NHKの良いところは、ディスクジョッキーの声が曲に被らないところだったんです。残念ながらディスクジョッキーの方のお名前は忘れてしまいましたが、話題性のある曲を積極的に選んでいらっしゃったと思います。特に、この時代は、その後ビッグになるグループが毎月のようにレコードデビューしていた時代ですから選曲も大変だったのではないでしょうか。






















中学校後期から高校(ロックからクロスオーバーへ)

中学生2年の二学期からは宮崎県の延岡へ転校。ここでも転機が訪れました。友達の一人に、やたら音楽好きの人間がいて家具調のステレオはあるは、ギターも上手。当然、話は合うしレコードの貸し借りも始まり、その輪が段々に拡がっていって、最後は、みんなでレコード購入会議なるものまで開くようになってしまいました。それぞれ小遣いに限りがあるため大変意味のある試みでした。AKAIのカセットテープレコーダーなるもの(聴くのは安いラジカセなんだけど)を持っている人間もいて、録音待ちの人間でいつも溢れているそいつの家はさぞかし迷惑しただろうなと思います。
この頃は、ハードロック御三家のツェッペリン、パープル、ブラック・サバスやプログレ四天王のピンクフロイド、キング・クリムゾン、イエス、ELP、台頭著しいアメリカンロックなどを中心にみんなでレコードを手分けして購入し聴きまくっていた時代です。勉強をしない日はあってもロックを聴かない日はないという日々でした。
しかし、1970年代前半はロックの多様化やクロスオーバーなるものまで登場し、あまりの情報の多さに自分が何が好きで何を聞きたいのかが決められない時代でもありました。そういう中、私はロックからクロスオーバーへと趣味が変化していくようになります。
それに火を点けたのがチック・コリア率いるリターン・トゥ・フォーエバーでした。フリージャズ系でありながら、わかりやすいジャズを模索していたチック・コリアのアルバム『リターン・トゥ・フォーエバー』は、ジャズの知識がまったく無かった私を魅了するに十分でした。特に、幻想的な音楽に絡むスタン・クラーク(当時は、スタンリーではなくスタンと表記されていた)のベースが最高でした。もともとイエスのベースマンであるクリス・スクワィアが好きだったということもありますが、特徴のある奏法とメロディアスなメロディーラインに見せられてしまいました。
そして、レコード購入会議にて、私の購入ジャンルがクロスオーバー系のフュージョン、ラテンロック、プログレに決定していったのです。まさにロックとクラシック、ジャズといったものが渾然一体となって溢れているという時代でした。























大学生時代(クロスオーバーからスィングジャズそして演歌へ)

クロスオーバーに魅了されてジャズなるものに興味が湧くようになってもロックのことを忘れることはできませんでしたが、バイトで稼いだお金は家賃と食費で消えていくばかり。大学生になったらバイトで稼いだお金を注ぎ込みレコードを買いあさる予定が、現実という最初の人生の壁が立ちふさがったのでありました。
そういう中で、ある古本屋で一冊の本に出会います。『反抗としてのジャズ』という本を古本屋で見つけ購入。黒人の生活の中から生まれたジャズを、社会的な立場から解説しているすばらしい本です。この本を読んでいくうちに白人と黒人がいっしょにプレーをしているビッグバンドのスィングジャズに興味を持ち、のめり込んでいきます。都合のよいことに、NHKのFMで毎日のようにスィングジャズをオンエアーしている時代でもあり、レコードを買う余裕の無い私にとっては大変助かりました。
そして、ついに演歌の時代がやってきます。
大学時代の後半は、文科系だったこともあり昼などは暇な時間が多かったのです。私の通っていた大学の佐賀には民放のFM局が無い時代です。聴くことのできるのは、弱い電波のFM福岡とどこでも大丈夫のNHKFMのみ。当然、電波の具合の良いNHKFMをお昼にも聴いておりました。お昼の番組に『昼の歌謡曲』という45分番組があり、それを聴くのが日課になってしまいました。山口百恵やキャンディーズからナツメロまで様々なジャンルが一週間の企画で放送されるという番組でしたが、どういうわけか演歌の回数が多く必然的に演歌の曲を聴かされるという状況でした。
それに、大学生といえば酒がつき物。酒にはカラオケときたもんだ。そうなるとロックのカラオケなんか無いから歌謡曲、しかも覚えているのは演歌ばっかり。森進一の『冬のリヴィエラ』に代表されるニュー演歌というものまで流行っており、演歌の奥の深さに気づいてしまったのです。アメリカがジャズなら日本は演歌じゃないのかと。
それからの大学生活は、
お酒は温めの燗がいい〜。肴は炙った烏賊でいい〜。
の演歌三昧の日々。
































社会人ひよこ時代(演歌からニューミュージックそしてロックへの回帰)

さあ、社会人。これからは自分で稼いだお金でレコードをと思っていたら、怠惰な大学時代を送っていたために疲れきる毎日。レコードを聴いているうちに寝てしまう毎日が続きます。世の中はニューミュージックブーム、スナックで歌われる曲も演歌からニューミュージック中心へと変化していきました。酒と歌の日々を送っていた私も当然ニューミュージックへ傾倒。アルフィーなどを声高らかにうたっておりました。
しかし、またもや転機か訪れます。レンタルレコードの進出によりレコードを聴く機会が増加してしまったのです。そうなるとやはり借りるレコードはロックになります。パンク・ブームも終焉を迎え、ニューロマンティックの波が押し寄せようとしている中、せっせとレコードを借りては録音する日々が、これまでの遅れを取り戻すかのように続きます。メジャーなグループが解散しロックに興味を失いかけていた80年前後、レンタルレコードの隆盛でなんとか興味を失わずにすみました。
そしてついに、CDの発売へ。これもまた私にとってロックに戻るきっかけを与えてくれたもののひとつです。

社会人雛鶏時代(演歌からニューミュージックそしてロックへの回帰)

CDの発売により、すでに発売されていたレコードがデジタル化されCDとして再発売されるようになっていきます。私も、やっとこさ買ったCDプレーヤーを活躍させるべく少しずつではありますが今まで買えなかったレコードをCDとして買うようになります。
そうなると、中古販売のレコード屋にも中古CDが並ぶようになってきます。買うことのできなかった70年代のレコードへの思いが一気に爆発してしまいロックへの思いが加速していきます。しかし、広島、大阪、名古屋、静岡、神奈川、茨城と続く転勤の日々によりCDを買う気力はあるものの肝心のお金に余裕が無くなり、なかなか思ったように収集できません。

社会人親鶏時代

80年代もあと数年になったときに結婚し、ますますお金に余裕がなくなってしまいます。最初の子どもが生まれたときに四国の松山へ転勤。このままロックへの思いは尻すぼみになるかと思われましたが、この転勤により又転機が訪れます。すでに10年近い営業マンとしての経験は、松山でも洋楽ロックを中心に販売しているレコード屋の親父(現在は廃業)と仲良しになるという離れ業を実現させたのです。
当然、そのレコード屋は中古のCDも扱っているわけで、欲しいCDをかなり安く手に入れる方法を掴み取ったのでありました。
こうして、1990年代は、私にとって怒涛のCD収集の時代となっていきます。それと同時に欲しかったアナログにも手を出してしまい、 収納に苦労するほどのレコードとCDが集まってしまいました。満足度は増すばかりでしたが、過去のレコードやCDのリイシュー盤が次々に発売されるようになった90年代後半、一体何種類の同じCDを買えばいいのか疑問を持つようになってきました。一応、少しではありますがお金に余裕ができてきた40歳代の人間としてこれ以上の買い物が無駄ではないのだろうかと不安に駆られております。